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カテゴリ:60、70年代ROCK( 13 )

ロックなおんなになってやる!

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イマ聴く、女性ロッカーのオススメROCK



シカゴ生まれ。思春期に酒、麻薬に溺れ、妊娠中絶を経験するなど荒れた生活を送り、家出して全米各地を放浪する。19歳のときにロサンゼルスのクラブで歌い始め、1977年頃にトム・ウェイツと知り合い同棲。その後、彼女が歌った「Easy Money」がリトル・フィートのローウェル・ジョージの目に留まり、デビューのきっかけをつかむ。
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1979年、アルバム「浪漫(Rickie Lee Jones)」でデビュー。全米3位の大ヒットとなる。バックは西海岸の超一流ミュージシャンたちが固め、フォーク、ジャズ、ブルースなどの影響が濃い音楽性と独特の気だるいボーカルは高い評価を獲得、グラミー賞の最優秀新人賞を受賞した。
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by saikaSTYLE2 | 2012-12-01 17:45 | 60、70年代ROCK

ロックなおんなになってやる!

 イマ聴く、女性ロッカーのオススメROCK!

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中山ラビ


1966年6月のビートルズ来日公演に行く。高校の英語の授業でボブ・ディランの歌を知る。1968年にデビューした岡林信康の歌を聞いて衝撃を受ける。また、高田渡、遠藤賢司、南正人らフォーク集団「アゴラ」の一員であったボロ・ディラン(真崎義博)に出会う。1969年、大学1年の時、第4回関西フォークキャンプ(8月15日〜17日)に自費で参加。ギターのコードを3つ覚えた程度で、京都の円山公園野外音楽堂での打ち上げコンサートで「俺じゃだめ」(ボブ・ディラン作詞・作曲、中山容=訳詞)ほかを歌って、ライブデビューし、1970年夏、大学2年の時、家出同然で京都に引っ越す。同年からアルバイトをしながら、関西中心にライブ活動を開始。
1972年12月、ポリドールから1stアルバム「私ってこんな」でメジャーデビュー。はっぴいえんどの細野晴臣、"乱魔堂"の洪栄龍らがバッキングバンドとしてサポート。1976年1月から翌年春にかけて、ニッポン放送の日曜日の深夜番組でパーソナリティーを務め、注目される。同年3月、シングル「時よおやすみ」が向田邦子らの脚本によるTBSドラマ「結婚前夜シリーズ」(全12回)の主題歌となる。続いて同年11月、桃井かおり主演のNHKドラマ「小夜子の駅」のために、「かえりたくって」を書き下ろし、一度は中山の歌を耳にしたことがある人が急増する。この時期も、地道に各地のライブハウスで活動する。

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by saikastyle2 | 2012-11-13 09:10 | 60、70年代ROCK

ロックなおんなになってやる!!

いま聴く、女性ロッカーのオススメROCK

プリテンダーズ

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イギリスの音楽誌「ニュー・ミュージカル・エクスプレス(NME)」の記者だったクリッシー・ハインド(ボーカル)を中心に結成される。当時のメンバーは、ハインド以下ジェイムス・ハニーマン・スコット(ギター)、ピート・ファーンドン(ベース)、マーティン・チェンバース(ドラム)。
1979年にシングル「ストップ・ユア・ソビン」(キンクスのカバー)でデビュー。翌年、ファースト・アルバム『Pretenders(邦題:愛しのキッズ)』、同作からのシングル「ブラス・イン・ポケット」が共に全英1位となる。パンク/ニュー・ウェイヴが席巻した当時、ストレートなロックンロールのセンスと、ハインドの快活で姉御肌のキャラクターが受け、人気バンドとなった。
『プリテンダーズII』(1981年)発表後、ピート・ファーンドンの解雇やジェイムス・ハニーマン・スコットの急死といったアクシデントが続き、以後メンバー・チェンジを繰り返す。1983年のシングル「チェイン・ギャング」は、バンドにとって初の全米トップ10入りを果たした。1985年にはライヴエイドに出演。アルバム『ゲット・クロース』(1986年)からのシングル・ヒット曲「ドント・ゲット・ミー・ロング」は、後に日本のテレビ番組「情報プレゼンター とくダネ!」で使用された。その後、元ザ・スミスのジョニー・マーが一時的に加入。1994年から2000年代前半にかけては、クリッシー、マーティン・チェンバース、アダム・シーモア(ギター)、アンディ・ホプソン(ベース)の4人で安定した活動を行う。
2005年にロックの殿堂入り。2006年、アンディ・ホプソンに代わりニック・ウィルキンソンが加入。

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by saikastyle2 | 2012-11-12 08:42 | 60、70年代ROCK

ロックなおんなになってやる!

いま聴く、女性ロッカーのオススメROCK

スージークアトロ




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陶酔のアイドル スージークアトロ

スーザン・ケイ・クアトロッチオ(Susan Kay Quatrocchio)としてミシガン州デトロイトで生まれる。父親アート・クアトロッチオはイタリア系であり、母親のヘレン・レベルはハンガリー系であった。
1965年、3人の姉とThe Pleasure Seekersを結成しアメリカ各地やベトナムをツアー。1969年に独立してLAでCradleを結成。1970年6月にデトロイトで歌っている際、ジェフ・ベックのモータウン・スタジオでのレコーディングのために同地に来ていた音楽プロデューサーのミッキー・モストによって高い評価を受ける。1971年末、ミッキーを頼って渡英。
72年7月、ミッキー自身のレーベルRAKレコードからUKにおけるファースト・シングル「Rolling Stone」を発表。フォークソング調の曲でさほど売れなかった。
73年に入ってからハードロック路線へのイメージチェンジのためソングライティングチームにニッキー・チンとマイク・チャップマンを迎え、芸名もSuzie QuatroからSuzi Quatroに変わった。セカンドシングルの「Can the Can」はUKを含むヨーロッパ及びオーストラリアでナンバーワン・ヒットを記録する。続いてリリースされた三枚、「48 Crash」(1973、UKチャート3位)、「Daytona Demon」(1973、UKチャート14位)も大ヒット。この年のUKのBest Selling Artist/Female/Singleの第1位となった。
74年にも「Devil Gate Drive」(UKチャート1位)、「Too Big」(UKチャート14位)、「Wild One」(UKチャート7位)が英国で大ヒットした。彼女のファースト及びセカンド・アルバムはヨーロッパとオーストラリアで大成功を収めた。日本でも70年代の終わりまで大変な人気があり、77年には大都市だけではなく中都市も回る大規模な日本ツアーを成功させ、日本でのライブアルバムも発表している。

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by Saikastyle2 | 2012-11-11 09:11 | 60、70年代ROCK

60年代ファッション

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ボブディランとジョーンバエズ

バエズのノースリーブのワンピースがとても素敵です。
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by saikastyle2 | 2012-03-01 16:49 | 60、70年代ROCK

60年代ロック

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バニラファッジ

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いわゆる「アート・ロック」に属している。
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1960年代後半、ベトナム戦争に端を発した価値観の転換が契機となって、芸術や音楽の分野でも、「アングラ」や「サイケ」、「ヒッピー・ムーブメント」といった動きが登場した。そんな中、約3分前後で終わるラジオ向け作品であったポピュラー音楽の在り様に対して不満を抱いた者が、演奏時間や表現手段の拡大を目指して様々な作品を発表し始めた。その流れのひとつとして、ヴァニラ・ファッジを捉える事が出来る。
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この「ラジオ・メディアの都合を無視した長時間の作品」という流れは、1970年代前半に全盛期を迎えた「プログレッシブ・ロック」に受け継がれる事となる。
キープ・ミー・ハンギング・オン
特にカバー曲に名作が多いが、彼らの代名詞となっているのが「キープ・ミー・ハンギング・オン」である。ファースト・アルバムからシングル・カットされた同曲は、元々はシュープリームスが唄って全米No.1となった曲だが、3分くらいだったオリジナルを、スローで色彩感の強い7分の曲にアレンジし、フル・ヴァージョンを収録したアルバム、及びレコード会社の意向で3分ほどに短縮されて収録されたシングルとも全米6位まで上昇した。
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また、日本でも日産・180SXの前期型のCMソングに使われていた。
この曲のメインボーカルを担当したのは、Keyのマーク・スタインである。
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by Saikastyle2 | 2012-01-31 12:14 | 60、70年代ROCK

60年代ロック

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ジョージフェイム




60年代のロンドン・モッズシーンを代表するヴォーカリスト&オルガン奏者・ジョージィ・フェイム。
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ジョージー・フェイム(本名クライヴ・パウエル)は1943年6月26日、イングランドのランカシャー州のリーに生まれた。やがて50年代のアメリカン・オリジナル・ロックンロールの数々に刺激された彼は、ロンドンに進出。60年の2月にはジーン・ヴィンセントとエディ・コクランの英国ツアーに参加し、同年の夏にはビリー・フューレイのバック・バンドだったザ・ブルー・フレイムズに加入した。そしてフューレイの元を離れて61年の末には、ジョージー・フェイム&ザ・ブルー・フレイムズとして本格的に活動するようになる。ソーホー地区にあった伝説のフラミンゴ・クラブに出入りするようになった彼らは、やがてその店の看板的存在として脚光を浴びるようになった。いわゆるモッズ・R&B・デイズの始まりである。65年1月にはモンゴ・サンタマリアが原曲となる「イエ・イエ」を全英チャートの1位に送り込む一方、イギリス公演に来ていたモータウンのパッケージ・ショーに唯一の英国組として加わり、シュープリームス、スティーヴィ・ワンダー、マーサ&ザ・ヴァンデラスらと共演するなど、人気を博していく。
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65年にザ・ブルー・フレイムズが解散してからは、ハリー・サウスのビッグ・バンドと共演してジャズ志向を打ち出したり、弦楽奏団とのイージー・リスニング・アルバムを作ったりと、フェイムは自らの音楽的領域を次第に広げていく。本人の意に沿ったものではなかったと伝えられるヴォードヴィル調の「ボニーとクライドのバラード」にしても、67年の暮れに全英で1位となるだけでなく、全米チャートでも4位までランク・インするなど、結果的には彼最大の成功をもたらせた。同時代の英米シンガー・ソングライターたちの作品を取り上げた71年の『ゴーイング・ホーム』や、元アニマルズのアラン・プライスと共同名義で作った『フェイム・アンド・プライス』(71年)、あるいはオリジナル作品を書くことが殆どなかったフェイムが珍しく自作曲ばかりで臨んだ“All Me Own Work”(72年)といったアルバム群も、彼のそうした音楽的意欲を反映したものだった。80年代に入ってからは活動の拠点を欧州に移すなど、やや活動が地味になってきたものの、コンスタントに作品をリリースして熱心なファンの支持を集め続けてきた。
 
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by Saikastyle2 | 2012-01-30 17:13 | 60、70年代ROCK

60年代ロック

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ザショッキングブルー

ロビー・ファン・レーベン(Robbie van LeeuwenもしくはRobert Leeuwen)がオランダで結成。ボーカルのマリスカ・ヴェレスは、途中参加である。
マリスカはハンガリーとドイツのハーフで、父親がジプシー・オーケストラのバイオリン奏者であったことから、父とともに幼少の頃から歌を歌ってきており、また、ショッキング・ブルーに加入する前にも、いくつかのバンドでボーカルを担当している。
1969年7月に、オランダで、「ヴィーナス」を発売、1970年2月7日のアメリカの「ビルボード(Billboard)」誌にて、週間ランキング第1位を獲得した。同誌1970年の年間ランキングでは第22位を記録し、ショッキング・ブルー最大のヒット曲となった。また、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーでは週間チャート1位を獲得したものの、オランダでの週間チャート最高位は3位にとどまった。 ショッキング・ブルーの成功は、グループのリーダーであり、ほとんどのオリジナル曲の作詞・作曲を行ない、自らは裏方に回ってマリスカを前面に押し出したロビーの手腕によるところが大きい。
彼らはヨーロッパや日本で大きな成功を収めた。
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by Saikastyle2 | 2012-01-29 15:56 | 60、70年代ROCK

60年代ロック

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1910フルーツガム・カンパニー
“バブルガム・ミュージック”で検索すると最初にヒットします、『ナインティーン・テン・フルーツガム・カンパニー』と読むバンド名です、序でに説明すると“バブルガム・ミュージック”とは、'70年前後のティーン向けポップミュージックで、“モーニング娘。”に喩えるのが云い得て妙であり、分かり易いかも知れません、明るくてストレートで唄い易い曲が多いです、アメリカの子供が幾つぐらいまで風船ガムを噛むのか良く知りませんが、音楽の視聴層の低年齢化とイギリスのポップミュージックやモンキーズ等のテレビ番組も大きく影響して産まれたのでしょう。
“1910フルーツガム・カンパニー”“レモン・パイパーズ”“オハイオ・エクスプレス”等が思い浮かびますが、グループとしての実態はあやふやであり、モンキーズ等と同様にプロデューサーとソングライターに依って創られた印象があります、ただ、アメリカンヒットチャートを聴いて育った私にとっては思い入れのある曲の多いジャンルであり、日本のグループサウンズや歌謡曲にも大きな影響を与えたと云うか、パクられたフレーズは数知れません。
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by Saikastyle2 | 2012-01-28 17:04 | 60、70年代ROCK

60年代ロック

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バッファロースプリングフィールド


1965年、Au Go Go Singers のメンバーとしてカナダ・オンタリオ州を訪れていたスティーヴン・スティルス、リッチー・フューレイの2人が、当地で若きギタリスト、ニール・ヤングに出会う。この出会いが後のグループ結成につながる。
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Au Go Go Singers 解散後、スティルスはカリフォルニアに拠点を移し、セッション活動で糊口をしのぐ合間にオーディションを受けるなどして細々と活動を続けた。プロデューサーのバリー・フリードマンから紹介された仕事をこなすためにバンドが必要になり、Au Go Go Singers で共に活動したリッチー・フューレイをカリフォルニアに呼ぶ。これでスティルスとフューレイが揃う。
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ヤングは1966年前半、トロントでブルース・パーマーに会い、彼が所属していたバンド「マイナー・バーズ」への加入を要請される。マイナー・バーズはレコーディングの準備が整えたが、リード・シンガーがアメリカ海軍によって逮捕されたため(彼は脱走兵であった)、デビューのチャンスを失う。ヤングとパーマーはスティルスとの再会を望み、ロサンゼルスに向かうことを決めた。
約1週間後、スティルスの居場所を見つけられないヤングとパーマーはサンフランシスコへの移動を考えていた。ある日2人はサンセット大通りで大渋滞にはまり立ち往生する。そこに、対向車線から偶然スティルス、フューレイ、バリー・フリードマンが乗った車が通りかかり、スティルス、フューレイとヤング、パーマーは再会を果たす。
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ザ・バーズのマネージャーであるジム・ディックソンの紹介で、パッツィー・クラインやザ・ディラーズとプレイしたこともあるドラマーのデューイ・マーティンが加わり、バンドの陣容が整った。グループ名は、スティルスとフューレイが居候していたフリードマンの家の外に停めてあった蒸気ローラーのメーカー名(Buffalo-Springfield Roller Company)から採った。
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by Saikastyle2 | 2012-01-27 10:22 | 60、70年代ROCK